特集「感じる力」を磨く教育
<ケース1>富士写真フイルム
自分の「根っこ掘り」を通じて、
価値観の転換と行動変容を図る
富士写真フイルムでは、35歳前後の中堅層を対象に4日間かけて自己洞察に取り組む研修を行っている。35歳前後とは、これまでの与えられた仕事をいかに上手くこなすかというHowの習得から、自分でテーマを発見して解決することで自らのレベルを上げていくWhatの時期に移行していく意識の転換期だからだ。同社では役職者(社長・役員含む)全員が経験済みで、言わば同社の精神的屋台骨を形成する研修といえる。
人事部担当課長 藤原 勝氏(注:2004年当時)
◆4日間かけて 「なぜ」を自分に問い詰める
人は、子供のころに持っていたみずみずしい感性をいつの間にか失ってしまう。大人の感性と子供の感性の違いはどこにあるのか。10月に急逝した詩人・川崎洋さんは、「なぜ」という詩を残した。
「なぜ 風は/新しい割ばしのように かおるのだろう」。なぜ、夏みかんは酸っぱく、人はひとりの人を愛するようになり、涙はうれしい時にも出るのだろうと、いくつもの「なぜ」のあと、詩は結ばれている。「人はなぜ/いつの頃からか/なぜ/を言わなくなるのだろう」
子供にはたくさんの「なぜ」があるのに、大人は年を取るごとに「なぜ」を減らしていく。答えを学習する理性の働きが優れていく半面、自ら問いを立てようとする感性の働きが鈍っていくのではないか。例えば、「自分はなぜ、いまの自分なのだろう」という問いに時間をかけて立ち向かう大人は少ない。
富士写真フイルムのMDP(Membership Development Program)研修は、3泊4日で自己洞察に取り組む、いまどきぜいたくなプログラムである(図表1)。
図表1
1971年に開始し、現在は35歳前後の中堅層を対象に階層別研修として行う。つまり社長以下、役職者全員が経験済みで、「会社の精神的屋台骨」を形成するものだ。心理学の専門家である外部講師(日本心理技術センター)とともに人事部のファシリテーターが研修に参加する。
スタッフの一人、人事部担当課長・藤原 勝氏から話を伺った。
35歳前後の中堅層を対象とする理由はこうだ。
「入社後、30歳を過ぎるころまでは、与えられた仕事をいかに上手に早くこなすかという“How”の習得の時期ですが、それ以後は自分でテーマを発見して解決することで自らのレベルを上げていく“What”の時期に移行しなければなりません。そのための意識転換教育として行います」
階層別研修は、MDP研修に代表されるヒューマン系、戦略や合理的思考法、プロセスエンジニアリングを学ぶコンセプチュアル系、フォトサイエンス・デジタルイメージング・コンピュータ技術などを習得するテクニカル系の3系統があり、ヒューマン系の柱は「自律」すなわち「自ら目標を設定して行動する習慣」である。
◆360度評価を踏まえ 自己を再確認する
MDP研修のエッセンスは次の3つ。
1) 360度評価による自己認知
2) 自己洞察と再決断
3) 新たな目標設定
参加人数は7~8人限定で、グループ討議、発表、個人学習を繰り返す。ファシリテーター役のスタッフが2人つく。後述の通り、MDP研修のファシリテーションには心理学の知識や個人カウンセリングの技能も要求されるが、人事部にはMDP研修を担当できる人が4人いるという)。
360度評価は、研修に先立って行われる。本人のほか上司、同僚、部下、関連部門(社内・社外)から2~4人が意見調査票に書き込む。革新性、信頼性、行動性、専門性、指導性などの指標について、「従来のやり方にとらわれない発想を打ち出しているか」といった設問に5点満点で答える仕組みだ。
「30過ぎの人は、革新性が弱く、行動性が高い傾向が見られます。ただし、自己イメージの高い人は自分に厳しく、周囲の人の評価が高い結果になります」
研修の前半、2日間かけて360度評価の結果を検討する。実際の検討に入る前、オリエンテーションで研修の狙いを説明するが、その際、360度評価を受け止めるときの心構えとして、カール・ロジャーズの自己概念の理論を引用して自己認知と他者認知の違いおよび「ジョハリの窓」(図表2)について講師が解説する。
図表2 ジョハリの窓
このポイントを踏まえ、各自が360度評価の結果を検討し、自分の強みと弱みについての現状の総括を行い、自己の評価と他者の評価がなぜ食い違ったのか、その原因を推定する。
「指導性の面で、例えば部下にアドバイスしていないという評価があった時、それはなぜかを自分自身で考えるわけです。若いころ、自分が上司に細々と指示されたのが嫌だったから、自分は放任主義で行こうと思っているなど、行動の背景にある自分の思いなど、いままで気づかなかった自分の別の側面に思い至るのです」
他者認知を踏まえて従来の自己認知を再検討し、新たな気づきを得たうえでいまの自分を総括するのである。
「7、8人も集まれば、だれかとの共通点が見つかり、共感できます。そこで鏡のような作用が働き、他人の言動から自分の見えなかった部分が見えてきます」
◆自分の「根っこ」を掘り下げる
2日目の夕食後の個人学習から、自己洞察をさらに深めていく。これを「根っこ掘り」と呼んでいるそうだ。人によっては幼児体験までさかのぼり、なぜ、自分がいまのような自分になったのかを探求する。その際の手がかりとして、文章完成アンケートを与えている。「自分がいま、悩んでいることは」「自分がいま、変えたいことは」「自分がいま、充実感を持っていることは」等々の設問を完成させるもの。なかでも「自分がいま、理想とする人物は」という設問には再度良く考えるように促している。研修後半に行う「新たな目標設定=自己開発計画策定」で、必要不可欠な材料になるからだ。
自己洞察に入る際、交流分析の人生脚本と再決断の理論を援用している。すなわち、人は生まれながら素晴らしい可能性をもち、自ら発展させていくことができるが、そのプロセスで阻害要因と促進要因の双方に影響されるというもの(図表3)。
図表3
(1) 人間は本来、成長していくすばらしい存在
(2) ところが、成長過程でいろいろな学習をして問題行動をするようになる(消極的・強調的でない等)
(3) 問題行動の根っこ(人間行動の源、価値観の元)を明らかにし、悪影響になるものを取り除くように決断すれば、阻害要因がなくなり、成長するようになる。
(4) 夢やあこがれを持ち真善美を追求するとさらに成長するようになる。
例えば、人が本来持っているチャレンジ精神に対して、「目立ちたがり屋だと思われたくない」「失敗したら恐ろしい」等々のブレーキがかかることがある。過去の経験から誤った学習をしているからだ。過去を振り返ってこのような阻害要因を見つけて取り去ることが、この自己洞察の狙いの第一。
以前は、自己洞察の結果、「強気な自分」を見出す人が多かったという。「チャレンジングな課題に挑戦しないのはなぜか」を掘り下げていくと、「いま、できることをきっちりやって成果を上げてほめられたい」という自分に気づく。そこには、「一番になりたい。優秀な自分を確認したい」という「強気な自分」がいる。一方、最近では「弱気な自分」が7〜8割を占めるという。「傷つきたくない」「叱られたくない」「失敗したくない」という思いが先に立って挑戦できないのだ。
弱気な人たちには、より丁寧なケアが必要になる。「夜中まで個人カウンセリングに付き合います。あとは自分で考えてと、最後に突き放すことも必要ですが」(藤原氏)
第二は、将来へのビジョン、夢や、真善美へのあこがれといった促進要因の強化である。
「例えば、失敗して傷つきたくないという気持ちがプラスに働けば、慎重に行動するので信頼性の評価が高まり、マイナスに働けば、消極的になってしまう。このようなマイナス傾向がなぜ、自分の身についてしまったのか、その心理的背景を探り、それを除去して一歩前へ出られる自分に変えていく。価値観の転換と行動の変容を図るのです」
◆人生での「栄光の日」(一番ハッピーな日)を想像し 未来の行動計画を策定
自己洞察の結果は、専用の行動計画表に書き込んでいく。「現状の行動特性」について「伸ばしたい点」「変えていきたい点」を明らかにし、「根っことなっている原因の追究」から「将来やりたいこと、なりたい姿」をイメージする。そしてそれを実現させるためのスローガンと具体策を掲げる。)
「将来なりたい姿についてはイメージがわかない人もいるので、人生で一番ハッピーな日をイメージすること(栄光の日)をお奨めしています」
例えば、自分が仕事で高い成果を上げて、写真のDPEチェーン店から表彰状を受ける式典のシーンを思い描いてみる。どんな新しい技術を自分は確立したのか?上司や仲間のだれがいるか?そこにいる人との協力関係は今とどう違うのか?
「思い描くうちにワクワクしてくるビジョンじゃなければ、本気になれない。たいへんだけど、ワクワク感を持った目標設定が大切です」
そうやって思い描いた「人生で一番ハッピーな日」を迎えるためには、どのように自分を変えていけばいいのか。達成可能なレベルまで落とし込み、具体的な解決策を探り出していく。研修後半の3日目、4日目のグループ討議では、自らが立てた開発計画の発表と意見交換を、一人ずつじっくり行う。3日の夜は、人によっては明け方まで自己洞察に取り組む人もいるそうだ。
◆望遠鏡、双眼鏡、顕微鏡、 万華鏡、潜望鏡で見る力がつく
MDP研修の成果について、藤原氏は次の3点を挙げる。
1) 他人の意思に従って他律的に生きるのではなく、組織の中で本当にやるべきこと、やれること、やりたいことをバランスとって自己実現する自律人間が育つ。
2) 自他共に洞察力が深くなる(問題の根っこまでとことん入り込んで原因を探り、解決しようとする志向が身に付く)
3) 共感能力が高まる(長時間のグループ討議を通じ、他者への関心が高まる)
ひとことで言えば、「知識、見識、胆識の3つが備わる、即ちあるがままの自分を受け入れ、その結果腹を据えて物事に取り組むようになる」という。
「元上司でこの研修の中興の祖の一人、富士フイルム人材開発センター乗井元社長に言わせれば、リーダーに必要な3つの鏡を持てるようになるそうです。
つまり、望遠鏡=中長期的展望、双眼鏡=複眼思考、顕微鏡=微細に検討し本質把握する力の3つです。私はこれに加え、万華鏡=思考や価値観の複雑な組み合わせによる発見、潜望鏡=視野の拡大(異分野の探索、いわゆる「ヤミ」研など)もあると思っています」(藤原氏)
この研修後の1~3ヵ月後にスタッフが職場に行き、上長と「受講者に今後どんなテーマをあたえてどう育てるのか」を議題に参加者の育成ミーティングを行います。手数はかかりますが、OJTとの繋がりにもなる重要なミーティングですし、研修成果を実感できる場面でもある。
◆今後の課題
この研修は富士フイルムの精神的な屋台骨なので今後も継続するが、
1)早期のキャリアデザインと課題形成力強化も含め今後は30歳になれば受講する。VDP(Value DevelopmentProgram)研修を新設し、MDPとあわせ注力する。
2)かつては役職者もMDP的な研修を実施していたが、現在は戦略策定に特化している。
時代の変化に伴いヒューマン系スキルの強化も再び必要になってきたので、戦略と組織風土活性化をリンケージした強化プログラムを導入する。
(人材教育 2004年12月 栗原 知女氏作 より引用)