掲載記事「人材教育最前線 第4回」
人間の可能性が実感できることが、教育という仕事の醍醐味
富士フイルム 人事部担当課長 藤原 勝氏(注:2005年当時)小誌では、2004年11月の特集“「感じる力」を磨く教育”で富士フィルムのMDP(Membership Development Program)研修を紹介した。研修の目的は,「徹底した事故洞察を行うことであるがままの自分受け入れ、その結果腹を据えて物事に取り組む自律型人材を育成する」というもの。1971年から始まったこの研修は、社長以下役職者全員が経験しており、いわばこれによって同社の精神的屋台骨が形成されているとも言える。この研修のファシリテーションには、心理学の知識や個人カウンセリングの技術が要求される。ファシリテーターとしてMDP研修を担当する人事部担当課長の藤原氏に、教育に対する想いを伺った。(浅久野映子)
◆社会人になっても勉強は必要
いまや教育のエキスパートとして活躍する富士フィルムの人事部担当課長・藤原勝さんだが、学生時代には漠然とはいえ、世界を舞台にかつ焼きするビジネスマンを目指していた。就職活動の際、商社にも気持ちが揺れたという藤原さんが最終的にメーカーを志望したのは、モノづくりの現場に対する思い入れからだ。
「富士フイルムはちょうど世界に先駆けてASA400の高感度フィルムを開発し、ガリバーのコダックに挑戦しようとしておりその姿に惹かれたこと、また人を大切にする会社であるという印象が強く、それで就職を決めました」と藤原さんは述懐する。入社後すぐに、その印象が実感に変わった。まずは同社の手厚い新入社員研修に、藤原さんは手応えを感じたのである。
『当時、営業実習の受け入れ先の課長(グラフィックアーツ部)は、今の代取締役社長・CEOの古森重隆さんでした。当時の古森課長は入社2ヶ月のわれわれに向かって、当時発売されたばかりの『セールス・グリッドー行動的アプローチによるセールス革新』を読み、その感想を聞かせろと命じました。良いセールスとは、営業の目標数字達成に注力するとともに顧客や仲間と良好な人間関係を構築する、そのバランスが必要だと教えたかったのだと思います。しかしこの課題は、学生気分が抜けきれていなかった私には剛速球を投げられたようでした。『社会人になるともっと勉強するんだな』という強烈な一撃でした」
1ヶ月にわたる工場実習では、3交替勤務を強いられた。そして体験から感じたことをレポートにまとめ、実習終了後に工場の部・課長の前で発表しなければならなかった。
この時の藤原さんのレポートは、「3交替オペレーターの勤労意欲はどこからくるのか」を明らかにするというもの。この当時から「自律」に注目していたのだろうか。
「いや、単純に深夜の労働現場にあっても手を抜くことなく働く人たちに驚いたからです。フィルムやカラープリントをつくる製造現場は塵埃が許されないので当たり前なのですが、だれも見ていないのに率先して掃除をする先輩の姿が、新入社員の私の目には新鮮に映ったのです。みんな見ていないのになぜそこまでやるのかと」と藤原さんは照れる。しかし、彼らの仕事に対するモチベーションは何かを探るために、先輩方にヒアリングして回った藤原さんの行動力には脱帽である。
分析の結果は、勤労意欲の源は「支えてくれる家族のため」、「自分自身へのチャレンジ」の他、「派手なパフォーマンスより、真摯に地道に仕事に取り組む姿こそが仲間の信頼を得るという職業人としての誇り」などだった。
このレポートが高い評価を得たことに加え、藤原さん自身も工場勤務を希望したため、新入社員研修後に藤原さんが配属されたのは、1,500人の従業員が在籍する静岡県富士宮の勤労課。ここで藤原さんは、採用や要員計画・配置転換の仕事を担当した。
◆企業の人材教育に必要な“共に育つ”という視点
藤原さんが教育の重要性を認識したのは、入社2年目である。1979年、富士写真フイルムは銀価格の異常な暴騰、いわゆる“シルバーショック”に遭遇した。そして、各工場の生産工程、及び間接部門で全社あげてのコストダウンに取り組んでいた。
「アメリカの投機集団の買い占めによって、写真フィルムの原料の銀の値段がわずか半年で10数倍にも跳ね上がったのです。富士宮工場でも臨時従業員の方の契約満了を実施したり、社員の一時帰休まで検討さぜるを得ない異常事態に陥りました。シルバーショックそのものは、投機集団の資金不足から半年後には収束するのですが、これをきっかけに経営環境の変化に負けない企業体質の構築が当社の目標になりました。当時、その一環として取り組んだのが女性の機械オペレーター育成です」
当時、工場の女性従業員は手作業が中心で機械のオペレーターは男性でした。手作業を機械化させ省力化し、男性から女性オペレーターに職種転換する合理化計画がありました。
「機械を扱うことにアレルギーを持っている女性は少なくありません。慣れていないうえに、機械を壊してしまわないか不安だからです」
これを払拭するために、足柄の技術研修センターに女性従業員を集め、機械・電気の基礎知識・技能を身につける女性オペレーター育成のための研修を行った。この時の教育担当が、藤原さんだった。
「機械アレルギーを払拭するために電気洗濯機や水道の蛇口等の身近な機械・部品を分解し構造を理解したり、電気回路組み立て実習では、作業がうまくいけば『成功おめでとう』といったメッセージが点灯するような仕掛けを設けるなど、ゲーム感覚を取り入れた研修を実施したのです。楽しみながらスキル向上が実現するのを目の当たりにして私は、教育とは面白いものだと実感しました」
富士宮工場には1998年まで在籍。最後の3年間、藤原さんは勤労課のなかで教育グループのリーダーの経験をした。
「技術者にせよ、現場の管理監督者にせよ、研修の相手は年上の方ばかりで最初は抵抗があったのですが、教育とは“教え育てる”ものではなく、“共に育つ”ものだと上司から教わり納得しました。知識や経験が少なくても『共に育とう』という視点があれば大丈夫、ということを学んだのはこの時期です」
後ほど開設する“交流分析(TA)”の第一人者である社会産業教育研究所の岡野嘉宏所長と出会ったのもこの時期だった。もっとも、若かった藤原さんは「教育担当者として少し世の中のいろいろな世界見た方が味が出るのでは?」と感じていたとも。だからこそ、1998年に工場勤務から一転、営業部の異動を命じられたとき、藤原さんはとてもうれしかったと語った。
作業着から背広へ。学生時代に描いていたビジネスマンの仕事が出来ると張り切っていた藤原さんの新たな配属先は、印刷システム部の営業部隊だった。
「印刷会社の下請け先にあたる製版会社さんに出向いて、競合他社から当社へ印刷材料を切り替えていただくための営業を展開するのです。いわゆる白兵戦ですね。技術的な知識も大事ですが、むしろ人間関係が大事。名刺を受け取ってもらうまでが大変で、通って通って自分を気に入ってもらって、その後ようやく商品を買っていただくという非常に泥臭い営業スタイルでね。なかなか買っていただけないし、先輩は厳しいし、30歳を過ぎてようやく、世間の荒波とはこういうものかと実感しましたよ」
当時は叩き上げの優秀な先輩セールスがいっぱいおられ、学歴の無意味さを実感したのもこの時だと、藤原さんは苦笑した。
「当時は小集団活動が盛んな時期でしてね。営業部門でもKT法をベースとするTQC活動をしていたものですが…。工場とは違い、営業では半年かかって目標を立ててデータをとって分析し…等の地道な小集団活動はなかなかできなくて、というより、しない。そろそろ発表しなければという頃になって、まずはいまの事業での最優優先課題は何かと考えテーマを決めて、審査員の顔ぶれからどういう活動が評価されるのかを分析し、それに会った活動内容を組み立てていく。ある意味、手抜きではあるが、見事なやり方だと感心しました。「相手の求めていることは何か、何をやれば満足いただけるか」という顧客志向であるし、本質思考でもある。工場勤務の頃は手続きや表面的なことばかり重視する頭でっかちだったと思い知らせれましたよ。
◆自律した生き方ができるように支援するための手法を学ぶ
藤原さんは、マーケティング関連の仕事をする業務課を経て、さらに新聞社向けの営業部隊へと異動。お客さまのニーズを掴み、商品を提供する提案の営業の仕事に就いた。
印刷の技術革新は目覚ましい。これに追いつくための勉強はもちろん、社内外で仕事にかかわる人たちとの付き合いに謀殺される毎日だったと、藤原さんは当時を振り返る。ところが…。
「商談の勝率は上がりました。ところが睡眠時間を削って仕事に邁進する毎日を過ごすうちに、だんだんこれだけでいいのかな?と疑問に感じるようになったのです。
他社との競合は言わばゼロサムゲーム。競り勝てばいいが、負けてしまえば成果はまさしくゼロである。他社に競り勝ったとしても次は顧客との駆け引きが待っている。売り上げはがそのまま利益につながるとは限らない。「極端に言うと地球資源の無駄ではないか?もっと共存共栄できないのだろうか?」藤原さんは呟いた。
年上の部下のマネジメントに関しても、どうすべきかヒントが欲しかった。藤原さんが久しぶりに岡野先生が主催する「ライフアドベンチャーセミナー」や「TA研究部会」に出席したのは、1999年だった。ここで感じるものがあり、翌年の2000年から「TAゲシュタルト勉強会」にも参加した。
TAとは、トランザクショナル・アナリシスの略語で、交流分析と訳される。TAの目的は、自分指針を深く理解するとともに、自分が他人とどのようにかかわっているかを知り、自分がこれまでやってきたやり方(行動のしかた、ものの見方・考え方、取り組み姿勢・態度)などに気づき、それを望ましいものに変えて、自分自身が本来もっている能力の可能性を伸していくことにある。
ゲシュタルトとは、“全体”とか“形態”という意味を持つドイツ語。そしてゲシュタルト療法とは、過去から引きずってきた葛藤や拒絶などによって覆い隠された本当の自分を認めることによって、自律した生き方ができるように、そして生きる喜びを感じられるようになる心理療法である。
「TAゲシュタルト勉強会」は、個人が成長してその人らしくいきてゆくための効果的な手法として、TAとゲシュタルト療法の集団的アプローチによって、成長に向けて壁を乗り越え、問題解決する手助けをするワークリーダーを養成するためのもの。この勉強会に、藤原さんは2000年以降毎年参加していると言う。
さらに藤原さんはGWの休暇を利用し、カルフォルニアにあるエサレン研究所のワークショップに参加した。
温泉があることでも有名なエサレン研究所は1962年に設立された人間成長のセンターで、ゲシュタルト療法や東洋のヨーガや瞑想などの身体性や感覚を重視してエクササイズを発展させてさまざまなセラピーを主催している。サンフランシスコの南、ビックサーという田舎町にある研究所の周辺はかつてヒッピーのコミューンが多かったことでも知られている。藤原さんは約30万円の費用をかけて、ここで開催されたいくつかのセラピーに参加した。この時、日本人の参加者は藤原さんだけだった。
「世界中から集まったいろんな参加者がいましてね。酒屋を経営している親父や退役軍人、製薬会社の副会長、保険のセールウーマンや学生など、さまざまな人たちとともにゲシュタルト療法を受講しました。もちろん、言葉は英語です。しかし、言葉はもちろん人種の壁も超えて、新しい生き方を求めるすばらしい体験を満喫しました。その時の仲間とは、いまでもたまにメールのやり取りをしますよ」
◆実現したい三つの夢
エサレン研究所のワークショップに参加したその年の2000年、藤原さんは富士写真フィルム本社の教育部門が分社化した株式会社富士フイルム人材開発センターに異動になった。
「教育の仕事に携われることになって、うれしく思いました」という言葉が示すように、藤原さんは教育の仕事にのめり込んだ。
「それまでは人手が無くてグループ会社の営業部門までは手が回らなかったので、この分野のマネージャー教育や顧客対応力、提案力・プレゼン力強化、を受け持つことにしました」
13年間の営業マンとしての経験が、教育担当者としての強みになったと藤原さんは自身を分析する。
「本社人事部と違い、人材開発センターは熱会社でしたからグループ会社は研修費をいただくお客さんです。研修プログラムを受講してもらうのにも、他社との競合に勝たなければなりません。グループ企業それぞれの要望を聞き出し、それに応じた研修プログラムを用意し、提案していかなければなりません。それも極めて早く。営業の仕事を経験してからこそ競合の研修会社より顧客ニーズに合った良いサービスを早くという意識を強く持てたと思います」
教育の仕事は面白く、夢中になった。月曜日だけは社内の会議に出席するために会社に出席したが、火曜日以降は研修のために2泊3日、あるいは3泊4日の合宿に参加する毎日が続いた。土日も例外ではない。金曜日の最終便で沖縄や鹿児島の研修先に出向き、日曜日の最終便で戻って月曜日の会議に出席することもあったという藤原さん。2000年から2004年までの4年間は、年間千百数十日を合宿で過ごした。講師はもちろん、テキストも藤原さんが作成したので、合宿中も深夜や休日はテキストづくりに追われるといった具合。
「もっとも営業マンの頃も得意先と仕事だ遊びだと飛び回っていましたから、仕事漬けの毎日がつらいとは思わなかったですね。むしろ技術が蓄積されて面白かった」
研修の評判が悪ければ次の仕事がないという厳しい現実は、一方で確かな手応えとなった。藤原さんが担当した研修プロブラムは、MDP研修などの自己洞察、TAゲシュタルト療法や合理的思考法(KT法)をベースにしたものが多く、これに新たな戦略的な視点を入れるなど、顧客のニーズに応じて研修をカスタマイズしたものだった。
「教育の仕事は、研修の現場で参加者が変わっていく場面に立ち会うことができる喜びがある。また研修を見て継続的に教育をやっている組織は実績が出ているし、人が成長していることを実感します」
2004年に人事部へ異動、現在は本社の教育担当として活躍している藤原さんだが、50歳を目前にまだまだやりたいことがあると言い切る。
「三つの夢があるのです。一つは戦略的課題形成力強化と人間力・リーダーシップ強化を併せたプログラムの構築。これは世の中には見当たらない。変革期にある当社にぜひ必要だし、あまり教育を受ける機会の少ない中小の会社の幹部教育にも活用したい。
二つ目は中国をはじめ海外の事業支援。現在、富士フィルム中国の現地セールスの方に営業強化、合理的思考法強化のお手伝いをしていますが、とても学習熱心でこちらが刺激になります。今後も教育を通じて日中友好の架け橋になりたい。
三つ目はプライベートになりますが、企業人だけでなく子供たちや親などに向けた問題解決のための体験学習、女性を含めた気づきや人間成長のセミナー。いずれも何らかの形で勉強し挑戦して、役立ちたいと願っています」
(人材教育 2005年10月 浅久野映子氏作 より引用)